VIPO

インタビュー

2023.12.07


「カンヌ 監督週間 in Tokio」特別企画――フランスと共同製作で映画を作る平井敦士監督のカンヌまでの軌跡とその後
作家性を持つ監督が世界に出てゆく登竜門的な場である「カンヌ国際映画祭」。その中でも最も特異で前衛性のある幅広いタイプの作品を紹介することを目的とする「監督週間」に選出された『ゆ』の平井敦士監督は、フランスのパリを拠点に活動しています。
2012年に渡仏してから平井監督がどのように映画業界とつながりを持ったのか、また映画制作にかける想い、フランスとの共同製作に関してや資金集めの方法など、映画業界を目指す若手が海外共同製作をするためのヒントと共にお話を伺いました。
 
なお、平井監督の短編映画『ゆ』は、2023年12月8日(金)~21日(木)に2週間限定で開催された「カンヌ 監督週間 in Tokio」にて上映いたしました。
(以下、敬称略)

 

日本を離れ共同製作で映画を撮るまでの道のり

映画好きの少年が映画の世界に飛びこむまで

 

VIPO「カンヌ 監督週間 in Tokio」総合プロデューサー 吉田佳代(以下、吉田)  それでは、平井監督、自己紹介からお願いいたします。
 
平井監督平井敦士監督(以下、平井)  平井敦士と申します。富山県富山市出身で、2012年からフランスにわたり、ダミアン・マニヴェル監督のもとで助監督などをしながらフランスで映画を学んできました。2作目の短編映画『ゆ』をダミアンにプロデュースしてもらって今年のカンヌ映画祭の「監督週間」に選出されました。今日はよろしくお願いします。
 
吉田  よろしくお願いします。富山で生まれ育って、高校まで富山に住んでいたんですよね?
 
平井  高校までは富山にいて、その後東京のバンタン映画映像学院監督本科に2年通って卒業しました。その後は富山に帰ってアルバイトをしてお金を貯めて、フランスへ渡り今に至ります。
 
吉田  平井さんの人生で映画を最初に観たのはいつ頃か覚えていますか?
 
平井  一番はじめは覚えていませんが、小学生のころから映画が好きでした。父が映画をすごく好きで、その頃はまだVHSの時代でしたが家の棚にアクション映画がたくさん並んでいました。シュワルツェネッガーが大好きで、他にもシルベスター・スタローンやジャン=クロード・ヴァン・ダムの作品がたくさんあった影響でよく観ていました。
 
今でも一番好きな映画は『プレデター』です。今、僕が撮っている映画とは全然違うんです。
 
吉田  全然違いますね。
 
平井  全然違うんですが、映画が好きになったきっかけはそこにあると思います。
 
吉田  それは小学校低学年くらいですか?
 
平井  小学3年生くらいから映画を観ていたと思います。あの頃はテレビでも映画を放映する時間が週に何回かありましたので、それを家族で観るのが楽しみでした。
 
吉田  家にお父さまのVHSがあるなど、映画を観る機会が9、10歳くらいからあったんですよね。もちろん映画館にも行っていたとか?
 
平井  子どもの頃、母や弟と一緒に『スターウォーズ』や『ジュラシックパーク』を観に行くことはありましたが、自分1人で映画館へ行くようになったのは高校生くらいです。家から自転車で30分くらいのところに映画館があったので、そこで高校生くらいからはヨーロッパの映画も観始めました。覚えているのは『潜水服は蝶の夢を見る』という映画です。
 
吉田さん吉田  それは私が買い付けした映画です。
 
平井  本当ですか? 吉田さんのおかげで観ることができたんですね。すごいです。
 
本当に映画を撮ろうと思ったのはその作品がきっかけです。吉田さんのおかげでここにいるんですね。
 
中学生のときに不登校で学校にいけない時期がありました。中2の夏から中3の卒業式まで全く学校に行けなくて心を塞いで家にずっといたときに、映画やドラマは現実逃避ができる、現実世界を忘れることができる、心が休められるところでした。
 
家にこもって自分が感じているいろいろなこと……どうしてみんなと違って学校へ行けないのだろうと考えているときに、ヨーロッパの映画やインディーズ映画とよばれるような作家性の強い作品に触れて、映画は自分の中で思っていることを表現できる媒体だと感じました。
 
自分の感覚や感じたことを表現に変えて、観た人なりに消化してもらえることを感じました。
 
商業映画とはまた違う、すごく感覚的で一言でキレイとは言えないその監督にしか作れないような作品『潜水服は蝶の夢を見る』に触れたことが、高校卒業時に映画学校に行こうと決めたきっかけです。
 
吉田  なるほど、そのような流れで、映画監督の職業に興味をもたれたんですね。では好きな監督はジュリアン・シュナーベルですか?
 
平井  その監督が特に好きだと言うよりも、あの映画がきっかけになった感じです。
 
吉田  それでは好きな監督は誰ですか?
 
平井  好きな監督は、フランスへ行く前は北野武監督に影響を受けていました。『HANA-BI』や『ソナチネ』は北野監督にしか撮れない、ファーストカットでも北野監督と分かる、その人にしか作れないものがすごく魅力的だと思いました。
 
今もツァイ・ミンリャン監督のような独特でその人の空気感を持っている映画にすごく惹かれますし、ダミアン・マニヴェルもそうですが、彼にしか作れない作品を撮っていると思います。五十嵐耕平監督もそうです。
 
 
初めてはいった映画の現場は『シン・ゴジラ』の原型!?

 

吉田  富山で高校を出てからバンタンで2年間勉強をして、卒業後は映画の現場には行かなかったんですか?富山に帰ってすぐに仕事をはじめたんですか?
 
平井  映画の現場に1本入りました。インターンという形ですが、原口智生監督の『デスカッパ』とうアメリカ出資の日本の特撮を面白い感じでやっている映画です。カッパがゴジラのように大きくなって戦うという映画の助監督の4番目をしていました。今思うと『シン・ゴジラ』の練習だったと思います。
 
庵野秀明さんや樋口真嗣さんが『シン・ゴジラ』や『シン・仮面ライダー』をしていますが、みなさんウルトラマンなどが好きなオタク仲間で仲が良いみたいです。
 
吉田  原型だったかもしれないですね。
 
平井  『シン・ゴジラ』と同じような会議室のシーンも出てきますが、庵野さんや樋口さんも現場にいました。なかなか豪華メンバーでみなさん楽しんで趣味のような形で作っていました。今は使っていないような小さな模型を円谷プロのように撮って、遊んでいるような感じでした。でも、結構厳しいハードな現場で洗礼を受けて、そこで「日本は大変だな」と思いました。
 
吉田  18、9歳の1本目でですか? 合わなかったのかな?
 
平井  僕はもともと体育会系ではないので、映画の現場はものすごく体育会系で結構怖かったですし、罵声が飛び交う現場で「いやーしんどいなぁ」とは思いました。
 
吉田  それで日本の映画の現場でこのままやっていくのは自分には限界があると思ったんですね。
 
平井  五十嵐耕平監督や『ゆ』で助監督として入ってくれた太田達成監督など、みなさんは全然それとは違うスタイルですし、その方たちの現場にも行きたいとは思いますが、ただ僕が初めて入ったところは体育会系な所で合わないとは思ってしまいました。
 
吉田  早くフランスに行こうと思い切ったんですね。行くことに迷いはなかったですか?
 
平井  1か月くらいは悩みましたよ
 
吉田  たった1か月! 普通は1年くらいは悩みますけどね(笑)。
 
平井  日本の次の現場に行きたくなかったので(笑)。
 


 
 

フランスへ渡った理由と渡仏後の生活

北野武監督や、黒沢 清監督に感じたシンパシー

 

吉田  シュワルツェネッガーや『プレデター』が大好きだった青年がどうしてフランスへ行こうと決めたのですか?
 
平井  そうですよね。どうしてアメリカじゃないのかとなりますよね?
 
日本のアクション映画の超大作で「ハリウッドを超えた」「ハリウッドのレベルまで」と言って撮っていたものがありましたよね。あれらの作品を観て、別に日本人がやらなくてもいいんじゃないかと思ったんです。そういうアクション大作は得意なアメリカ人が撮ればいいと思ったんです。
 
海外で評価を受けている北野監督や黒沢清監督に自分と通じるところがあると言うか、そのような感性のほうが自分には近いと思いました。
 
20歳くらいの若いときに「なんか日本はしんどいなぁ」と思ってところに、実は映画学校の同期にイギリスへ行こうという誘いが来ていました。現場も嫌だったので僕も一緒に「海外行くよ」なんて話していたんですが、僕が富山に帰ってお金を貯めている間にその同期は親のお金で先に行ってしまったんです。
 
そこで僕はきちんと稼いで自分のお金でヨーロッパへ行こうと思い、映画の発祥の地ということもありフランスに決めました。
 
ただ、実際に行ってみるとCNC(フランス国立映画映像センター)の支援、アーティストそれぞれへの支援、ビザなど映画に対する設備がヨーロッパ全体的、特にフランスはしっかりやっているところだと分かって、フランスで良かったとあとで思いました。

 
 

『ゆ』のファーストカットから感じた平井監督の世界観とは

 

吉田  『ゆ』を初めて観たとき、ファーストカットからフランス映画かなというくらい、アキ・カウリスマキやウェス・アンダーソン的な世界が始まると思いました。
 
吉田さんもちろん平井監督は日本人で、プレス資料もたくさん作っていたので情報はありましたが「こういう風にくるんだ」とすごく嬉しい驚きでしたよ。
 
21分の世界だったのでもっと観たいと思いましたし、もっともっといろいろな人に焦点を当てて他の人の話も観たいなと思うくらい、緊張感がすごく高かったです。
 
平井監督の世界観がファーストカットで出ていました。そういう意味では日本のPFFや昔の東京国際映画祭のヤングシネマに出てくる新人にノックアウトされたような感じでした。
 
平井監督が次に長編や中編でも作ることをすごく楽しみにしています。
 
ただ、制作にきっとすごく時間がかかる監督なんだろうなとも思っています。撮影も準備もライティングもこだわっているので、時間とお金が大変かかる作業だなと思いました。
 
『ゆ』を観て、10年フランスで生活して、勉強して、現場に入り、フランス人のプロデューサーと制作したことが、あの21分に結集されている素晴らしい映画だと思っています。
 
22、23歳でパリに一人でポツンと行ったんですよね。誰か頼れる人がパリにいたんですか?
 
平井  最初はパリではなくて、ポワチエでした。ジャンヌダルクが最後の戦いをしたところです。
 
ポワチエには、日本人が1人か2人しかいませんでした。フランスの語学学校で一番安いことでも有名なところで、韓国人や中国人の生徒はたくさんいましたが、日本人は全然いなかったので、大変でもありましたが、かえって日本語が話せる環境が全くなかったおかげでフランス語が話せるようになりました。
 
友達も韓国人や中国人なので、英語が話せない僕はフランス語しかは話す手段が無かったんです。それでも1年くらいしたらある程度コミュニケーションを取れるようになったので、結構楽しくやっていました。
 
吉田  語学学校にはどのくらいいたのですか?
 
平井  2年です。
それからパリへ行って、パリでは映画には関係のないビジネス系の学校に通っていました。その後に映画学校に入りました。
 
吉田  映画学校はどのように選んだのですか?フランスでも映画の基礎を勉強しようと思ったのですか?
 
平井  渡仏したときは映画をやりたいと思っていましたが、実際にすぐにできる訳もなく、まずは語学からと思い語学学校へ通っているうちに、だんだんモチベーションが薄れてきてしまったんですね。でも最後に「ここまで来て語学だけやって帰るわけにはいかない」と思って、パリへ移ってビジネス学校へ行きながらビザの更新をして、もう一度映画の学校へ行きました。
 
その映画の学校は、語学がある程度話せていても、授業となるととても難しかったんです。分析して論文を書いたりするなど難しいことが多くて……。僕ともう一人韓国の方以外は全員フランス人で、その中に入って授業を受けていましたが、全くついていけなくて。
 
そこで成績が足りなくて進級できずこれはダメだと思ったのですが、そうなるとビザも取れないので日本に帰るしかないわけです。

 
 

フランスとの共同製作で映画を撮る/映画を撮ること=生きること

ダミアン・マニヴェル監督との出会いで映画人生が一変

 

平井監督平井  映画学校に通っているときにダミアン・マニヴェル監督と知り合って、長編2作目の『The Park』の現場に見学として行かせてもらっていました。
 
成績のこともあって、学校が続けられないとビザも取れないので、日本へ帰らなければならなくなった時、たまたまダミアンが『泳ぎすぎた夜』を日本で五十嵐耕平監督と撮る話をしてくれて「ここの現場に来ないか」と言ってくれたんです。
 
すごいタイミングで、フランス映画のダミアンの現場に初めて青森で参加させてもらい、彼の撮り方や五十嵐さんのやり方を見てこの人についていきたいと思いました。
 
ダミアンのやり方はすごく画期的で、今まで思っていた映画制作の概念を覆されました。素人の6歳の少年を撮って映画にしていったり脚本を書かなかったり、普通はあり得ないじゃないですか?
 
まずは脚本があって、映画を撮ろうと小道具や衣装を準備して、脚本に沿って助監督がスケジュールを組んでいきますが、そのようなことが全くないんです。
 
起きたことを撮ってそれをフィクションに変えていく逆の方法なんて観たことがありませんでした。
しかも日本でも五十嵐さんのように現場で起きていることや空気感を大切にしながら映画を撮る人もいて、その2人が合わさって面白いものができていて……。
 
そこで刺激をうけてもう一度フランスに戻ろうと、ワーキングホリデービザを取りました。

 
 

自分のことを描いた自主制作映画と『フレネルの光』

 


(C)MLD FILMS
平井  僕がフランスでやっと撮った映画で『フレネルの光』の前に自主制作で撮った映画があるんです。
 
吉田  なんという映画ですか?
 
平井  『Declic』という映画で、27分ほどの短編です。きっかけとか始動装置という意味があります。
 
吉田  これが1本目の映画になりますか?
 
平井  自主制作映画ですね。これは僕が悩んでいたときの話で、フランスにいる男が日本に帰るかこっちでやっていくかという内容です。
 
『フレネルの光』にも出演してくれた田中純平さんは素人だったのですが、彼とフランスの俳優の方に出ていただいて、パリの僕の自宅でワーキングホリデー中に撮りました。2017年のことです。
 
吉田  ダミアンに出会えてよかったですよね。映画を作っていこうという決心や覚悟をしたのは何歳ですか?
 
平井  ダミアンに拾ってもらえなかったら、今もフランスにはいなかったと思いますし、『フレネルの光』も撮っていないと思います。
 
ダミアンと五十嵐さんの共作『泳ぎすぎた夜』が公開された2017年に、僕も映画を作ろうと決めました。
 
吉田  『Declic』は自主製作だったけれど、『フレネルの光』は出資者がいたということですか?
 
平井  『フレネルの光』はMLDというダミアンの映画を作っている会社です。マルタンとダミアンにプロデュースしてもらって、CNC(フランス国立映画映像センター)と、クラウドファンディングで五十嵐ご夫妻はじめ他からも協賛をいただいて撮りました。
 
吉田  制作しているときは楽しかったですか?
 
平井  大変だったけれど楽しかったです。こういう仕事をしていると、撮っているときが唯一生きた心地がします。撮ってないときは生きている感じがしないというか……。
 
吉田  『フレネルの光』の中で、男が閉館した映画館に行くあの映画館は、昔は映画館としてあった場所ですか?
 
平井  あれは実は漁港の建物で、漁師さんたちが会計をつけたりする事務所なんです。モデルになったところをイメージしながら形は違いますが、作りました。
 
吉田  あの男も自分の過去をたどる話ですよね。
 
平井  僕の話ですね。
 
吉田  平井監督はダミアンっぽいですよね。脚本はあったと思いますが、現場的に撮ればとるほど広がっていくと言うか、脚本には最小限しか書かれていないんだろうと思いました。
 
もちろんプロの俳優さんも出ていますが、そうではない地元の方やおばあちゃんも出ていて、そういう人を面白くいきいきと、見ていて違和感なく映画にする監督なんだろうなと思いました。
 
『ゆ』に出てくる人たちもすごくいいですよね。よく見つけたと思います。ずっとお風呂屋さんで待っていたのかと。

 
 

自然ににじみ出る「ぽさ」を大事にすること

 

平井  すごくフランス映画っぽいと言ってもらいましたが、ファーストカットのおじさんも僕の近所の人で、本当に普通の人たちが映画になっているんです。
 
日本にいたときはああいう風には撮れなかったです。
 
日本にいた学生時代に撮った映像を観返しても今とはやはり違うのですが、それが自分でもどう変わったのかがはっきりとはわからないですが、フランスにいて、ダミアンについて自分の中に「溜まったこと」や「染みている」ことが無意識に表現されているところがあると思います。
 
吉田  真似ようとしているのではなくて、自然とですね。
 
平井  最近はそれを「やろう」としてやったらダメなのではないかと思っています。
ひとつ自分のことは分かったほうが良いとは思いますが、こなれてくると変わってきてしまうんだろうなと思います。
 
『フレネルの光』と『ゆ』を観ていても、『ゆ』でまとまり始めているところはあったので、次は違うこともしてみたいなと思いました。やってみたいと思っていることは漠然とはあるので。
 
吉田  アプローチを変えると違う扉が開くかもしれないので、それはすごく楽しみですね。
 
『フレネルの光』と『ゆ』は双子のような感じで親が同じということを想起させるので、次は全然違うものになったらそれはそれですごいと思います。
 
今度はカンヌの「監督週間」の長編のほうで上映してください。

 
 

フランスへ渡って10年でカンヌ映画祭の舞台に

第76回カンヌ国際映画祭「監督週間」部門正式招待作品『ゆ』が上映

 

吉田  カンヌ映画祭へ行っていかがでしたか?
 
「監督週間」では北野武監督や黒沢清監督など際立った特異な監督を輩出していますが、「監督週間」に自分の作品がかかった感想はいかがですか?
 


©︎ MLD FILMS

 
平井  映画祭はダミアンの映画で何回かは行ったことがありましたが、「監督週間」は初めてだったのと、もちろん自分の映画で行けたのは初めてでした。まさかと思って、ずっと不思議な感覚でいました。
 
いろいろなジャンルの作品があって、フランスの監督による白黒映画『コナン』にすごく衝撃をうけました。すごすぎて「うわぁー。同じ部門にこれがあるのか」と思いましたね。
 
かたや銭湯でゆっくりしている映画や血まみれになって内臓を食べる映画とで、セレクションの幅が広いなと思っていたら、最後にホン・サンスが出てきて……。
 
枠にとらわれないおもしろい部門だと思いました。ひとつずつ、きちんと選んでいることをひしひしを感じる「監督週間」でした。そういう意味でも面白かったし、上映されて光栄でした。
 
吉田  おもしろかったですよね。
 
「監督週間」へのエントリーは自分でしたのですか?
 
平井  会社というかマニフェストからです。
 
吉田  今年のセレクションを見ていても、短編の数だけではなく内容的にもバラエティ豊かでしたよね。中国の女の子の監督の作品もすごかったですよね。短編もすごい作品が来るなと思いました。
 
監督たちをジュリアンが舞台に一人ひとり上げたとき、「アツシヒライ」と平井監督が呼ばれて上がってきたときの顔がすごく緊張しているようでした。インスタにアップされているのを見て、やはり晴れの舞台だと思いました。
 


(C)MLD FILMS

 
あのような映像を見ると私たちも嬉しいですし、映画を志す若い人たちや大学で映画を専攻しているような人は「すごいなこの人」と大変刺激になると思います。
 
国際的な映画祭で正式出品できた新人の監督として、平井監督はすごく大切な存在だとVIPOは思っています。そのようなことはどう感じていますか?
 
平井  すごくありがたいことだと思っています。でもカンヌの舞台に立っている自分は変な感じでした。
 
『ゆ』は近所のおじさん達と近所の風呂で小さなチームで撮っていますし、僕自身すごく普通の人間……というよりポンコツなほうだとも思います。
 
不器用だし頭もいいほうではないので、悩み苦しみ、みんなに怒られながら支えられています。
「やらせてください」と言ってヘロヘロになって映画を撮っているので、カンヌの舞台だけ切り取ると監督としてドーンとやっている感じですが、本当は這いつくばって映画を撮っています。
 
吉田  若者が見たら「かっこいい」、「誰だ、この平井!」とヒーロー的に見る人がたくさんいると思いますし、それは大切なことですよ。
 
華やかなカンヌで選ばれて自分の作品が上映されて、凱旋で日本で上映されるのはサクセスストーリーの第一章のようなところです。
 
海外の映画祭でインタビューされることや映画祭の人と話されているのをみて、「デリケートな人なんだな……」と私は思いましたが、『ゆ』や『フレネルの光』はそのデリケートさの裏返しなんですね。かっこ良く言うと本人はすごくデリケートでもろい人間ですが、苦しめばいいモノが出てくる……そういう監督はあまり日本にはいませんよ。
 
日本では、新人はプロデューサーと二人三脚で作っていくのでプロデューサー次第で成功するかしないか決まるところがあります。お金集めや会社にプレゼンして配給を決めてもらうのも、プロデューサーの後についていくしか、新人はデビューできないんですよね。
 
そういう意味では平井監督は自分で日本を飛び出して、いろいろ苦労をしながらもダミアンと出会って築き上げたものがあります。大変だったとは思いますがパリへ行ってから苦節10年でこのように花開いたことはすごく良かったです。映画は1人では作れないしお金のかかるものなので、素晴らしいスタート地点に立って短距離を走ったと思います。
 
日常生活はいろいろご苦労もあるのではないかと思いました。不器用ところのそうですが、すごく真面目な方なので、気苦労も多いのかなと想像します。でもそれが全て映画への糧になりますよね。苦しみや挫折があればこそ感動する映画も作れると思うので。

 
 

監督として「本物」にこだわること

『ゆ』の制作秘話と自分のルーツ

 

吉田  監督として『ゆ』の作品で絶対に譲れなかったこと、こだわったことはありますか?
 

撮影風景
(平井監督インスタグラムより)
平井  こだわったのは「お風呂に入る感覚」を映画に出すことです。銭湯が好きで撮った映画なので。21分くらいの作品ですし、お風呂に行って帰ってきたような感覚になれたらいいなと思いました。
 
ロケハンもアイデアや脚本を書くときも銭湯に通い、脚本も銭湯の休憩室で書いたりしていました。湯につかりながら人を観察して、「ああいうカゴを持っているんだ」とか「そこから体を洗い始めるんだ」と映画になるように見ていました。その時に絵コンテを考えたり、そこに登場人物がいると思ってお風呂を眺めてたりしていました。
 
ロケ地としてお借りした草津鉱泉は、1年くらい休業していたので、風呂のコケを取ることからボイラーも直しました。自分でボイラーを使えるように特別に教えてもらって湯を入れられるようにもなりました。
 
配管やバルブなど裏のシステムを理解するので結構むずかしいのですがそれも全部教えてもらって、湯の張っていない風呂に入ってそこの現場を見ながら「ここに入れ墨の人がいる」とか「主人公がここで石鹸をあける」とか思いながら絵コンテを考えて、チームが集まってきてそれを撮る感じでした。そこは本当にこだわったところです。
(参照)ホクネツ株式会社> 導入事例>https://hokunez.co.jp/works/20230908-1235/
 

撮影風景
(平井監督インスタグラムより)
吉田  そのときの写真はカンヌが決まってからインスタに上げていましたよね。まだ湯が張っていないお風呂の中にスタッフが入っていて、カメラの3脚を立ててカメラマンのブノアがセッティングしているのを見ました。本当の銭湯が使えてよかったですね。
 
平井  銭湯のストーリーの幕を閉じられること。お風呂を撮るということはそこに通った方々の時間や後のようなものが残っているような気がして、それをどれだけ撮れるかだと思いました。
 
僕の撮る映画は「この場所が取りたい」というところから始まったりします。
 
『フレネルの光』は、僕の生まれた町を撮りたいと思って撮りました。『ゆ』は僕の好きな銭湯を撮りたくて、そこに物語がいろいろ生まれてきたのでそれを形にしていきました。
 
一番最初のルーツだけは絶対に忘れない、譲れないところです。
 
吉田  昭和30年代の石鹸箱やお湯を組む桶を探していましたよね。昔のモノで撮りたいと、そういうところまでこだわっている想いが表れていました。
 

撮影風景
(平井監督インスタグラムより)
平井  レトロというか、その人たちが本当に使っていたものでないと意味がないと思い、それが作り物でも意味がないと思いました。
 
本物を超えてくるものはもしかしたら無いと思っていて、ダミアンのやり方にもつながるのですが「そこに起きているものやそこに生きているもの撮ったときに、それはこちらで作ったり仕組んだりしたものではかなわない」ということが大いにありました。
 
それで本当に使っていたものを探しました。リサイクルショップへ行ったりインスタで持っている人を探したりしていましたが、最終的に家の隣に住んでいる人が持っていたので、それを借りてやったんです。

 
 

縁と運をひきよせるのも才能のうち

 

吉田  隣の人が持っていたんですか? 素晴らしいですね。ラッキーですよね。
 
平井  ラッキーです。そこは自分のある意味運というか才能だと思っています。
 
吉田  運があるんですね。ここぞという時の運が、監督の求めることを導いてくれるということは、すごく大切ですよ。
 
平井  雪が降ったのもそうなんです。その年は雪が本当に降らなくて、無理かもしれないけど必要だなと思っていたら、最後の最後にそのときだけパンと降ったんです。
 
吉田  その話、俳優の方もカンヌで言っていました。ずっと待っていたと。汽車が来るシーンだったので、汽車待ちなのかと思ったら雪待ちだったんですと。そこまで監督がこだわっていたと言っていました。
 
平井  そういうことにいつも恵まれているとは思いました。
 
吉田  汽車が来ているときによく降りましたね。
 
平井  そうなんです。あの日だけ降ってくれて、汚れていない新雪が撮れたんです。それは狙っては撮れないもので、待ってはいましたがそのようなことに助けてもらっています。
 
『フレネルの光』も実は台風が来ていて、荒れて荒れて撮れないのではないかと思っていたら、1回雨がおさまって、ちょうど最後のほうのシーンで台風が去ったんです。
 
台風が去った後の不思議な空の色ってありますよね。その最後のシーンで台風明けの空が撮れたんです。
 
吉田  すごいですね。自然も味方してくれているんですね。
 
平井  自然には勝てないので予測外のことも起きます。『フレネルの光』では雨がバーッと降ってくるシーンは、本当は雨のシーンを予想してはいませんでしたが、でも雨が降ることによって主人公が悲しんでいるという分かりやすい表現ですが、じっとりして弟と自分のある場所を探しているタイミングとちょうど合っていました。
 
作戦を立てていることよりも、そこに起きたことのほうが大いに面白いことがあります。それを切りとっていくことや盗んでいくことはダミアンや五十嵐さんのやり方を吸収できたことなのかなと思います。
 
吉田  そうですね。素晴らしいです。

 
 

映画のテーマは常に探している

 

吉田  自分の生まれた土地やお風呂が好きだから撮ったとおっしゃっていましたが、その辺のテーマはずいぶん前から持っていたんですか? テーマが生まれた瞬間はいつでしょうか?
 
平井監督平井  意識はしていませんが、僕は常に撮りたいと思っています。映画監督はみんなそうかもしれませんが、「なにかこれは映画になるんじゃないか?」と視点をもって過ごしていると思います。
 
『フレネルの光』は初めてフランスから帰ってきたときに携わった『泳ぎすぎた夜』の時くらいから「ここを映画にしたら」とか「うちのおばあちゃんを撮りたいな」と考えていました。
 
その頃から銭湯が好きでよく行っていたので「いつかお風呂の映画とれるといいな」と思っていたので、そうやってずっと考えていたことを形にしているところはあります。
 
吉田  この方に観てほしいとか誰かに向けて作るところはありますか?
 
平井  映画を撮るなら観てくれるお客さんのことを考えて撮らないとただの独りよがりになってしまうとは思いますが、正直、僕はあまり考えていないですね。
 
自分が撮りたいと思ったり、こういうことをしたいと思った気持ちで作っています。
 
編集の時には観る方たちのことを考えますが、撮るときには考えてないかもしれません。
と言いますか、その余裕が僕にないんだと思います。
 
僕は本当に起きたことを撮ることが一番いいなと思っています。それこそ脚本を書こうと決めてから、銭湯へ行って銭湯を経営している人の話を聞いて回ったりボイラー室を見せてもらったり、掃除をさせてくださいとお願いして開店前のお風呂を磨かせてもらったり、番台さんからもお話を聞きました。
 
吉田  富山で大成功するのが分かりますよね。
 
平井  懐かしいと自分のこととを思ってくれたり、昔銭湯を経営していた方もけっこう来てくれたりしました。先日は、主演の吉澤宙彦さんの地元長野でも上映しました。
 
吉田  吉澤さんのご両親もいらっしゃいましたよね?
 
平井  ご両親も来てくれていました。涙しながら観て、終わってから僕のところに「良かったです」と言いに来てくれるお客さんもいました。みなさん自分と重ねて観てくれていました。

 
 

作品から拡がるご縁と世界、そしてこれから

偶然の出会いと応援してくれる人が広がって資金に繋がる

 

VIPO「カンヌ 監督週間 in Tokio」総合プロデューサー 吉田佳代(以下、吉田)  資金集めについて聞かせてください。フランスからの助成金もあったと思いますが、先ほどの五十嵐さんご夫婦は個人で支援してくれたとか。他からやそういう個人の方にはどういうステップを踏んで、集めたのでしょうか?
 
平井  最初はフランスのコテクールという短編映画祭のプレゼン大会(ピッチ)で優勝しまして、その賞でFRANCE 2という日本のNHKのような公共放送テレビの放映権と、撮影に向けての援助をいただきました。あとはCNC(フランス国立映画映像センター)というフランスの映画機構でもコンペで脚本を提出して通ったことで、援助を受けられました。
 


コテクール受賞の様子
(平井監督インスタグラムより)

 
フランスの資金は到着するまでに時間がかかってすぐに支払われないことや、僕の場合はお金がかかってプロデューサー泣かせなんですが、時間をかけてやらないと映画が撮れないタイプなので、富山県の地元で撮影費を集めたいと思って、撮影の4か月前くらいに富山に戻って1か月間くらいいろいろな企業をまわりました。
 
そのきっかけは、いつも偶然なんです。一番協賛してくださった五十嵐ご夫婦にお会いしたのは、3~4年前の『フレネルの光』を撮影しているときでした。すごくかっこいいシーンが撮れすぎて本編に入れられなかったのですが、本当はあの映画のラストシーンにはクジャクが出てくるんです。
 
それで、富山の僕の知り合いの方がやっている喫茶店でクジャクを探している話をしたら、お客さんとして五十嵐さんがたまたまコーヒーを飲んでらして、「僕は猟友会に入っているから聞いてみてあげようか」と言われて、お願いしたところからお付き合いが始まりました。
 
『フレネルの光』の時は、クジャクを探すときに協力していただいたのでお名前をエンドロールに載せてもらうことを話したら、映画好きな方で自分の名前が載ったことがすごく嬉しかったと言ってくれて、次に協力をしてくれたり、違う方を紹介してもらったりしました。
 
吉田  それは、素敵なご縁ですね。
 
平井  僕の幼馴染の歯科衛生士が働いている歯科医の院長が『フレネルの光』が良かったと言ってくれて、ロータリークラブに連れて行ってくれました。
そこでプレゼンさせてもらったことから企業の社長さんと繋がっていくことができました。その中の一人が内外製薬のケロリンの社長さんのお知り合いでもあり、応援してくれる方たちが広げてくれて助けてくれる方が集まった感じです。
 
吉田  引き寄せる力がすばらしいです。
 
プレゼンをしたそうですが、極端にセリフが少ない映画だと思いますが、きちんと伝わるのがすごいです。どのようにプレゼンしたのでしょう?
 
平井  僕の映画は資金の引っ張りにくい映画だと思いますよ。
 
吉田  言葉で説明するのが難しいですよね。
 
平井  そうなんです。僕自身、言葉にできないから映画を撮っているところがあります。僕は映像や空気でしか表現できないんです。
 
言葉にするのが本当に苦手で脚本を書くときは、とんでもなく苦しいのですが、僕の元上司の方のお母さんの話や、お風呂や地元が好きな思いは結構伝わりました。
愛というか、自分がもともと持っていた想いのようなものなので、それを下手くそなフランス語でフランス人の中で1人、好きだ好きだ言っていたので注目されたのかなと思いました。
 
吉田  資金集めのことを聞くと平井監督の愛や想いが、地元の方たちやお風呂屋さんに同じ思い出がある方の心を動かすファクターになったと思います。
 
凱旋上映すると、そういう人たちが観に来ていて、非常にいい話で素晴らしいですよね。
富山の市長とも写真を撮っていましたよね。
 
平井  銭湯が好きらしく、子どものころからよく行っていたとお話していました。
地元の地区センターのようなところで、上映したときも3回行ったうちの1回目から100人超えた方たちが来てくれて、地元の方に支えてもらっていると感じました。
 

富山市のほとり座にて
(平井監督インスタグラムより)
吉田  カンヌから記事が出たからですよね。富山方面でも出ていましたよね。地元でみなさんが応援している感じがひしひしと伝わりました。
 
平井  NHKさんにも出させていただき、テレビにもたくさん取り上げてもらいました。
 
五十嵐さんご夫妻は一番協賛してくださって『フレネルの光』の時から応援してくれています。他の企業の方や富山や個人の方からもたくさん応援していただいています。ケロリンの内外薬品も富山の会社なので、そちらからもいただいています。
 
吉田  地域活性ではないですが、1本の短編映画がこんなに人を動員して、平井監督がいろいろな方たちと写真を撮って花束をもらって、きっと幸せなことだろうなと思いながらインスタグラムを見ていました。
 

富山市のほとり座にて
(平井監督インスタグラムより)
平井  そういうことが目的で映画を作っているわけではないのですが、最終的にそうなったら嬉しいですし、応援してくれた方たちにもお返ししたい気持ちはもちろんあるので、純粋に映画として表現して作品を作っています。
 
変にプロモーションを考えるのは失礼だと思ったので、やりたいことをとことんやらせてもらって、お返しできるところとして「お湯」と書いてあるオリジナルタオルをつけました。
 
映画を観た後にお風呂に入りたくなったと言う方も結構いて、銭湯に行ったら「あのタオルを持って来てくれました。ありがとうございます」と言われました。みんなが喜んでくれて、銭湯を貸してくれた方も「銭湯は取り壊されてしまうけど、記録に残ってよかった」と言ってくれました。
 
今まで映画を観なかった人たちも僕の映画を観に来てくれていたと思います。初めて映画館に来た方もいました。そういう方が「こういう映画があるんだ、こっちの映画も観てみようか」と思うきっかけにもなったようで、やって良かったと思いましたね。撮ってそれで終わりではないんですよね。
 
吉田  本当にそうですね。自分の作品がきっかけで世界が広がることは嬉しいことだと思います。作るときには今起きている現象や、こんな日々が待っているなんて想像もしなかったですよね?
 
平井  カンヌに入ることすら「もしかしたら、行けたら……」と思うぐらいで、こんなに早くここで公開することも、渡仏した頃は想像できなかったです。
 
吉田  いい映画を作れば素晴らしい展開になるということですよね。

 
 

スタイルを決めずにいろいろな挑戦をしていきたい

 

吉田  次回作は今準備していますか? 中編か長編かでは考えていますか?
 
平井  短編の可能性もあると思います。
 
今、ドキュメンタリーのお仕事もいただいています。フランスの仕事ですが舞台は日本のものを撮るかもしれません。
 
吉田  いろいろやったほうがいいですよね。
ドキュメンタリーでも面白いものができればドキュメンタリーの映画祭もありますもんね。フランスの場合は助成金がドキュメンタリー部門でありますよね。
 
どんな内容でもいいので、ぜひ撮影してほしいです。
 
平井  今までと全く違う企画もあります。これこそ「どうやって資金を集めるんだ?」という感じですが、SFっぽい映画をやりたいと思っています。ハリウッドみたいなSFではなく、SFのニュアンスのある映画を撮ってみたいんですよ。
 
実は『ゆ』を書く前にその脚本を書いていました。フランスで撮る予定だったのですが、迷走してしまって一回休んでいます。撮りたいという気持ちは前からあるのですが、会社が「うん」とは言わなそうなので、それをどうしようかなと思っています(笑)。
 
吉田  路線変更ですか? 会社との議論はもちろん必要かもしれませんが、やりたいこと、撮りたいものがあることはすごくいいことですよね。ましては前に書いた脚本もあるんですよね。
 
平井  以前書いた脚本は1回捨てたほうがいいですが、やりたい気持ちは残っているので、それをトランスフォームしていく感じです。
 
吉田  そういうことを大切にしたほうがいいと思います。
 
平井  僕は自らの気持ちやエネルギーが無いと何も作れないと思います。
 
吉田  今後も平井監督はマルタンとダミアンの共同体として身を置きつつ、フランスと日本で資金的にも内容的にも共同製作を行っていくのが一番現実的でしょうか?
 
平井  マルタンとダミアンはここまで支えてくれて、僕のこともすごく理解してくれてますし、僕よりも僕の良さを分かってくれている人たちです。そういう意味ではプロデュースも素晴らしく、作家の良さを引き立ててここまで持ち上げてくれてくれた人たちだと思って感謝をしています。
 
ただ、ずっと一緒でなくてもいいと思っています。ドキュメンタリーは別のプロダクションだったりするので、挑戦しながらダミアン達とも一緒にやっていきたいです。変に今から自分のスタイルを作らずに、いろいろなことをやってみたいと思っています。
 
吉田  まだ30代前半で若いんですし、いろいろとチャレンジして頑張ってほしいです。
 


カンヌ「監督週間」にて
向かって左から、ジュリアン・レジさん(「監督週間」アーティスティック・ディレクター)、
平井監督、ダミアンさん、マルタンさん、吉澤宙彦さん(主演俳優)

 
 

国際共同製作のおもしろさ

海外でやるメリットは、自分たちの世界や感性が広がること

 

VIPO 吉田吉田  平井監督は国際共同製作が当たり前だと思いますが、VIPOでは国際共同製作で映画を作れる方の人材育成*に力を入れています。
*「VIPO Film Lab」監督コース国際プロデューサーコース
 
日本だけで作った経験はないと思うので比較は難しいかもしれませんが、これから国際共同製作をする人たちへのアドバイスやメリットデメリットなど参考になることがあれば教えてください。
 
平井  国際共同製作でしかやり方を知らないので、僕の場合は特殊なケースだとは思いますが、一緒に組む人が「どれだけ作品や自分のことを理解してくれている人か」ということでしょうか。
 
僕の場合は海外のプロダクションなのに、日本で撮っているという、めずらしいケースだとは思います。
 
具体的な内容で言うと、海外の人と一緒にやると、「感性が全然違う人たち」「感覚や文化が違う人たち」とやる面白さがあります。ブノアと一緒に撮影するときも僕が見えていないものが見えていたり逆に僕からしたら当たり前のことが向こうからしたら変だったり、そういうところで発見があったりします。
 
セリフにしても日本人からしたら言語でも、向こうの人からしたら音としては音楽と変わらないじゃないですか?音の編集をしているときに、絶対にやらないことを提案してくれたりします。
 
最初に編集をしてくれたジュオンは僕が字幕を付ける前に編集をしていて、セリフ中なのに切ったりしていました。向こうは感覚を掴むためにやっていただけでそれを使おうとは思ってはいませんでしたが、それを見せてくれたときにすごく面白いと思いました。最後の編集までそのニュアンスは残っています。
 
感覚の違う人とやることで、外からの目を知ることができます。日本人がフランスで撮るときは「日本人ということ」が強さだとも思います。
 
変にフランス人になる必要はなくて、変に日本らしくしなくてもそれが勝手に生まれてくることが面白いところだと思いますし、海外でやるメリットは、自分たち世界が広がることだと思います。
 
大変なところはシステムが違うので、フランスのプロデューサーが言ってきていることを日本のプロデューサーに伝えると、「それは無理」と分かってもらえないことがありました。単純な撮影許可についてもです。日本って厳しかったりしますよね。特に子どもの使い方なども向こうはおおざっぱなので、感覚がズレすぎていて難しいことはありました。

 
 

VIPOが与えてくれた機会

 

吉田  VIPOに今後期待することややってほしいことはありますか?
 
平井  今から映画を目指す人や海外でやってみようと思っている人たちは、カンヌでの上映作品をみるとすごい監督に見えるかもしれませんが、僕をはじめ実はこんな人間なんだとわかったインタビューだったと思います。
 
監督それぞれの良さがあって、いろいろな種類の映画があるところが「監督週間」のおもしろいところで、そのようなきっかけをVIPOが作ってくれていることは素晴らしいことだと思います。現地でも上映の時にいろいろな監督と繋がることもできました。
 
吉田  いろいろな監督と繋がれるところは「監督週間」のいいところですよね。
 
平井  それにVIPOが主催してくれたパーティでもいろいろなプロデューサーに出会ったりできました。
 
架け橋としてすごく助けてもらいましたし、今後も監督たちにそのような繋がりの機会を与えてくれるのだろうなと、期待と言えば上から目線のようになってしまいますが、素敵な取り組みだと思います。
今日もこのようにインタビューさせてもらえたことがありがたかったです。

 
 

文化と文化をつなぐ「本当のこと」を表現する大切さ

資金集めの肝は純粋な熱意

 

対談風景吉田  国内でご縁をよびこんで、お金も集めて、サポートしてくれる方がたくさんいるお人柄ということがとてもよくわかりました。
 
日本での地味な銭湯の話の企画が通ってお金を出してもらえた肝となる理由について監督自身はどう思っていますか? 
 
平井  ひとつは日本の文化という部分があったと思います。銭湯の文化がフランスでは珍しくてキャッチーだったんだとは思います。
 
とはいえ、内容はすごく地味ですしなにか起こるわけでもないので、おそらく僕自身の体験や本当にそこで出会った方との話だという人間ドラマの部分を見てくれたんだと思います。
 
もちろん作ったものではありますが、僕自身が心動いたことがオリジナルとなっています。
最初の企画意図の中にも、自分の銭湯との出会いや自分の生活に必要な場所だということ、人との出会いの場であることや、地域の方の大切な場所だということを映画に入れたいと話しました。
 
銭湯はいろいろな方の人生が交差する場所です。僕はそこで救われて銭湯の映画を作ろうと思ったので、資金集めの時にはそこはしっかりと思いを押し出して脚本に気持ちを出せるようにしました。
 
吉田  その意図を審査員の方たちがくみ取ってくれたんですね。
 
平井  そうですね。他の監督のみなさんも、何か気持ちが動いて映画を撮っていると思いますが、僕の話は実体験や自分の持っている話だったことがより分かってもらえたんだと思います。
 
吉田  お話を聞いているときちんと取材をしていますし、ファクトを積み上げているところが素晴らしいと思いました。そこが伝わったんだと思います。
 
日本の若手の監督やプロデューサーにも、その部分をもっと大切にしてほしいと感じる部分でもありますよね。
 
私たちは文化庁から委託を受けて「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト」の事務局も担っているので、何十本も脚本を読んだりしているのですが、「本当らしさ」が足りない脚本も結構多いので今日の平井さんの話はとても参考になりました。映画作家なら当たり前なのかもしれませんが、「そこをきちんとやろうよ」という話なんですよね。
 
平井  もしかしたら売ろうとしないほうが、いいのかなと最近よく考えます。目的がそこだとしても「こうやったら評価してもらえる」とか「資金を取れる」と思ってやらないほうがいいのかなと。
 
自分の思いに純粋に、「やりたい」気持ちが一番強いと思います。
それをうまいことやると本当の想いが薄まったり弱まったりしてしまいますし、最近はそういう作品がたくさんあると感じています。
 
純粋にやりたい気持ちで撮って、あとはプロデューサーがうまいことしてくれればいいですよね。そういうコンビでできる人を見つけられたことが僕の財産だと思っています。
 
吉田  『ゆ』に関していえば、平井さんの物語でもありますが、みんなが共有できるテーマの物語でもあったと思える本当に素晴らしい作品だと思います。
 
平井  撮影を行った草津鉱泉でも上映会をしました。この銭湯は取り壊しが決まっているのですが、そこに通っていた方や近所の方にも観てもらい、みなさんの生活にとってすごく大切な場所だったんだと思いました。だんだん少なくはなってきていますが、忘れてはいけないひとつの文化だと思います。
 
銭湯は映画館と似ている感じがしています。
 
知らない人と大きなお風呂に浸かるってすごく気持ちがいいことで、家でお風呂に入ることとは違う体験で、知らない人と言葉を通わせなくても気持ちが通うことがあるような不思議な場所です。
 
今は配信でパソコンがあれば映画を観ることができるのですが、映画館へ行くと体験として違うじゃないですか。知らない人たちと観て、その画面や音や何かを感じて知らない人と共有するということが、銭湯とお湯を分けるということと似ていると思いました。
 

銭湯からの帰り道
(平井監督インスタグラムより)
僕は銭湯からの帰り道が好きです。今日考えたことや体験したことをさっぱりして気持ちに変えて、銭湯から帰るときのような気持ちにこの映画を観てなったと言ってくれた方がいたんです。
 
「銭湯の帰り道のようにほっこりした気持ちをひとつ持って帰ったことが、銭湯みたいだったね」と銭湯を経営している方に言ってもらって、そういう映画っていいな、銭湯っていいなと思いました。
 
そこにある文化を大切にしていきたいと思うので、銭湯もですが、今後の日本の映画もこれからどんどん面白くなってまた映画っていいなと思う方たちが増えたらいいなと思っています。
 
 
※平井敦士監督による『ゆ』(「モントリオール・ニュー・シネマ国際映画祭2023」短編部門でグランプリを受賞)と『フレネルの光』は「カンヌ監督1週間 in Tokio」にてご覧になれます。(会期:2023年12月8日(金)~12月21日(木)ヒューマントラストシネマ渋谷)
ぜひ、劇場にて平井監督の世界観をご堪能ください。
 

 

 


 

平井敦士監督 ATSUSHI Hirai
映画監督

  • 1989年、富山市水橋生まれ。東京の映像専門学校を卒業後、24歳の時に渡仏。パリの映画学校を経て、日本でも公開された『泳ぎすぎた夜』『イサドラの子どもたち』のダミアン・マニベル監督に師事し、助監督を務めた。地元の富山で撮影した短編『フレネルの光』がスイス・ロカルノ映画祭のインターナショナルコンペティション部門にノミネートされたほか、15カ国の映画祭に招へいされ、アジア最大級の国際短編映画祭「ショートショートフィルムフェスティバル&アジア」ではジャパン部門グランプリ、東京都知事賞を獲得。現在もパリに在住。


 
 
 
 

 


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