佐藤正二氏インタビュー

佐藤正二氏インタビュー

今でも映画がエンターテインメントの王様だと確信している。
そんな映画を、業界全体で盛り上げていきたい

敗戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の映画管理が始まり、映画興行はアメリカ 映画中心に復興を進めた。荒廃した時代、映画はエンターテインメントの王様だった。佐 藤さんはそんな頃、”夢を売る”仕事を始める。

WORKS of SYOJI SATO

佐藤正二さんが配給を手がけた主な映画

  • 『エデンの東』(1955年公開)
  • 『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957年公開)
  • 『老人と海』(1958年公開)
  • 『リオ・ブラボー』(1959年公開)
  • 『オーシャンと11人の仲間』(1960年公開)
  • 『マイ・フェア・レディ』(1964年公開)
  • 『バルジ大作戦』(1966年公開)
  • 『俺たちに明日はない』 ・ 『ブリット』(1968年公開)
  • 『ウッドストック』(1970年公開)
  • 『ベニスに死す』(1971年公開)
  • 『ダーティーハリー』(1972年公開)
  • 『燃えよドラゴン』(1973年公開)
  • 『エクソシスト』(1974年公開)
  • 『大統領の陰謀』(1976年公開)
  • 『ガントレット』(1977年公開)
  • 『スーパーマン』 ・ 『ビッグ・ウェンズディ』(1979年公開)
  • 『白いドレスの女』(1982年公開)
  • 『ポリス・アカデミー』 ・ 『トワイライトゾーン』(1984年公開)
  • 『ライトスタッフ』(1984年公開)
  • 『カラー・パープル』(1986年公開)
  • 『リーサル・ウェアポン』(1987年公開)
  • 『バットマン』(1989年公開)
  • 『夢』(1990年公開)

『エデンの東』『俺たちに明日はない』『ベニスに死す』『エクソシスト』…。じつはこれらの名作はすべて、(株)クエストコミュニケーションズ代表取締役であり、ブエナビスタの宣伝担当アドバイザーとして活躍する佐藤正二さんが配給・宣伝を手がけた作品。ジェームス・ディーンが夭折した1955年にワーナーブラザーズに入社した佐藤さんは、まさに日本の洋画配給の生き字引と言えるだろう。

「テレビもインターネットもない時代の映画宣伝とは?」

私たちの世代にとって、映画は非常に大きな存在でした。終戦後の退廃した世の中において、映画だけが唯一の娯楽であり、文化の泉だったのです。戦後しばらくはGHQが映画の管理を行っていたため、私たちが観ることができたのは主に戦勝国の映画でした。日本にデモクラシー思想を根付かせるという意図も多分に含まれていたのですが、精神的にも物質的にも飢餓状態にあった私たちに夢を与えてくれたのは、まちがいなくアメリカの 映画でした。なんとか映画の業界に入り込めたときは、本当に嬉しかったですね」
佐藤さんは入社以来、一貫して配給・宣伝の仕事に関わってきた。まだテレビが普及していない昭和30年代、映画宣伝の仕事の中心は「とにかく新聞に取り上げてもらうこと」 だったという。
「新聞に好意的な記事を載せてもらうためには、まず、

批評家の先生たちに試写を観ていただくわけですが、ここにもいろんな“ルール”がありました

佐藤正二氏インタビュー現在の銀座・松屋の裏にあった“東京フィルムビル”(旧・帝国ホテルなどを設計したフランク・ロイド・ライトが手がけたアメリカ資本のビルで、冷暖房完備された当時ではモダンなビル。1~2階にワーナーブラザース、3~4階にフォックス、5~6階にメトロが入っていた)が試写会場だったのですが、先生方の座る席はいつも決まってたんです。いちばん後ろのはしっこには飯島正先生、その前の席には植草甚一先生。双葉十三郎先生は前から2列目で、淀川長治先生は後ろから3列目の真ん中だったかな。先生方に送る招待状も手書きで1枚1枚、ていねいに書いてましたね」
テレビもインターネットもない時代、映画宣伝はまさに“足で稼ぐもの”だった。

費用対効果を考えた顕著な方法は、チラシをまくこと

とにかく人の多いところへ行こうということで、朝の8時に東京駅でチラシを配ったこともありました。宣伝カーも、よく使いましたね。トラックのボディに絵看板を描いて、スピーカーで映画の宣伝をしながら、繁華街を走る。本当はお役所で許可をもらわないといけないのですが、区によっては大らかで、勝手に走っていても怒られませんでした(笑)。あとはサンドイッチマン。チャップリンの格好をしている人など、銀座をはじめ街々名物になってるサンドイッチマンも多かったんですよ。『グレートレース』という映画では、フジテレビ、JAFの協賛を得て“安全運転コンクール”を開催しました。『老人と海』では、伊豆大島で釣り天狗と一緒に釣り大会を開催。

少ない宣伝費で知恵を出し合って、映画宣伝やってました

“邦題”を考えるのも、宣伝部の重要な仕事だった。
「『俺たちに明日はない』の原題は『ボニー・アンド・クライド』。アメリカのローカル・ギャングの名前を並べてるだけなので、アメリカでは通用しても、日本では何のことだかわからない。だから、どうしても邦題が必要になるわけです。このタイトルは、内容に則していることはもちろん、安保闘争まっさかりの頃ですから、時代の空気もうまく含ん でいる。

『俺たちに明日はない』が日本でも大ヒットしたのは、邦題の力も大きいと思います

『燃えよドラゴン』も印象に残っています。この邦題は、当時ベストセラーになっていた『燃えよ剣』がヒントになっているのですが、“燃えよ”というフレーズを使うには司馬遼太郎先生の了解がぜひとも必要だと思い、産経新聞社を通して連絡を取ってもらったんです。司馬先生に快諾していただきました。いまは原題をそのまま使うことが諸般の事情で多くなってます。少し寂しい気もしますね」
62年にワーナーブラザーズの宣伝部長になった佐藤さんは、さらに大きなプロジェクトに関わるようになる。90年に公開された『夢』。黒澤明監督がメガホンを取ったこの作品でも、佐藤さんは大きな役割を果たしている。『太陽の帝国』の上海でのロケハンの時に

スティーブン・スピルバーグ監督が来日したとき、“どうしてもクロサワさんと会いたい”という要望があった

黒澤プロの野上照代さんの絶大な協力を得て、その手筈を整えさせてもらいました。場所は神田の天春。スピルバーグ監督はフランク・マーシャルさん、キャサリン・ケネディさんを伴って、店にやってきました。このとき黒澤監督が『夢』の構想をスピルバーグさんに聞かせ、応援を頼んだんです。スピルバーグさんは黒澤監督を心から尊敬しているから、“しかるべきところに話をしましょう”と約束してくれました。この会合がなければ、『 夢』は誕生しなかったかもしれませんね」

「これからの時代に配給・宣伝に求められる資質とは?」

「“映画が好き”という気持ちだけで何とかやっていけた我々の時代と違い、映画に限らず幅広い知識が必要になってますよね。宣伝は宣伝だけやってればいい、ということでは なく、

制作やマーチャンダイジングを含め、あらゆることに精通していなくては、これからの映画業界を乗り切ることはできない

難しい時代ですから、プライドとパッションを持ってアドベンチャーの連続に挑戦してもらいたい。私は今でも、映画がエンターテインメントの王様だと確信しています。そんな映画を、業界全体で盛り上げていけたらいいですね」


取材:映画専門大学院大学設立準備委員会
取材協力:『映画・アニメ・CMの全仕事』編集部

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