VIPO

インタビュー

2020.02.13


「プロデューサー養成講座」の講師・安藤紘平先生に聞く――これからの映画プロデューサーに求められること
現在の日本映画界では、製作委員会やメディアミックス展開などに携わる方が増えています。VIPO「映画プロデューサー養成講座」講師の安藤紘平先生は、かつてはTBS社員として働くかたわら映画を制作し、早稲田大学教授(現・名誉教授)としても数多くの学生を指導してこられました。今回は、安藤先生をお招きし、なぜ今、「映画プロデューサー養成講座」が必要なのか? これからの映画プロデューサーに必要な能力や役割とは何かを、これまでの映画制作・人材育成の経験をふまえ、お話しいただきました。

(以下、敬称略)

 
 

現在の日本映画界を牽引し、世界進出、国際共同製作ができるプロデューサー育成のために

プロデューサー養成講座で最も重要視していること

邦画の発展を間近で見てきた者として
 
映画監督・早稲田大学名誉教授 安藤紘平先生VIPO映像事業部 チーフプロデューサー/元・東宝映画プロデューサー 本間英行(以下、本間)  まずは、安藤先生が映画の世界に入った経緯を教えていただけますか? 
 
映画監督・早稲田大学名誉教授 安藤紘平(以下、安藤)  もう50年以上前のことです。フランス留学から帰って早稲田大学に復学した私は、寺山修司さん主宰の劇団「天井桟敷」に入団しました。天井桟敷の海外公演でドイツに行った帰り、パリで寺山さんが「これからは映画の時代だ。カメラを買って映画を撮ろうよ」と、半分ずつお金を出し合って16mmの中古カメラを買いました。それがきっかけと言えばきっかけでした。
 
帰国後、劇団仲間の萩原朔美さん、榎本了壱さんと3人で映画制作集団を立ち上げ、ついでに、雑誌を出そうと『ビックリハウス』*を出版しました。その頃私はTBSに入社していて表に出ることができなかったので、陰の創立者としてときどき『ビックリハウス』に出ています。そして映画を撮りはじめたのでした。
*1974年~1985年まで発行された日本のサブカルチャー雑誌。当時の若者文化に多大な影響を与えた。
 
1作目の『オー・マイ・マザー』がドイツの「オーバーハウゼン国際短編映画祭」に入選し、4作目の『息子達』はフランスの「トノンレバン国際映画祭」でグランプリをいただきました。前年のグランプリ受賞者がヴィム・ヴェンダースで、私がグランプリをとった年の審査委員長でした。それで「映画でやっていける」と勘違いし、TBSに在籍しながら映画の道に進むことになりました。映画監督協会には大島渚さんから無理やり入会させられました。
 
TBSを定年退職したときに、篠田正浩監督から「早稲田に恩を返さないとダメだろう」と言われて、早稲田大学教授として70歳まで映画を教え、現在は名誉教授を務めています。
 

『Oh! My Mother』 (1969)

『Oh! My Mother』 (1969)
「オーバーハウゼン国際短編映画際」(独)入賞
©Kohei Ando

『The Sons』 (1973)
『The Sons』 (1973)

『The Sons』 (1973)
「トノン・レ・バン国際映画祭」(仏)グランプリ
©Kohei Ando

「映画プロデューサー養成講座」が生まれた背景
 
本間  「映画プロデューサー養成講座」が生まれた背景についてお聞かせください。
 
安藤  それは、VIPOの槙田さんと“プロデューサーの大切さ“で意見が一致したからです。
 
VIPO事務局次長・映像事業部長 槙田寿文(以下、槙田)  監督育成は「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト」事業がありましたが、コンテンツ業界でほかの人材育成をしたいと話している中で、プロデューサーが大事だということになったんです。
 
安藤  私もプロデューサーの役割はとても大切だと思ったので、大賛成しました。ただし、プロデューサー養成と言っても漠然としています。私は早稲田大学でカリキュラムを作っていましたが、プロデューサーの仕事は多様で、教え難いんです。
 
例えばテレビ局のプロデューサーは、企画書が通れば制作費が出るので資金を集める必要は無いし、放送枠も決まっているので配給の苦労もありません。ですから、〝企画をいかに面白くするか“に集中すれば良い。流れに任せて「人気俳優が出たら数字がとれる」などという感覚の中でプロデュースしている人もいると思います。
 
演出家は学生時代に自分で映画を撮った経験を持っている人が多いですが、テレビ局のプロデューサーは、映画やドラマ製作の勉強をしたわけではなく、見よう見まねでやってきて、どのような脚本が素晴らしいのかの基準も持っていない人が多いと思います。
 
槙田  そうですよね。本間さんに、「東宝は育成のシステムのようなものがあるか?」と聞きましたが、「ない」と言われました。
 
VIPO事務局次長・映像事業部長 槙田寿文 特に製作委員会方式になってからは、プロデューサーが自ら企画を立てることも少なくなってきたと思います。イチ映画ファンとしてみても、シナリオの辻褄が合っていないような作品もあり、大きな疑問を感じることもありました。きちんとした理論やノウハウ系の勉強をしていないことが、理由の一つだとも思いました。そこで、これからの若手プロデューサーや、プロデューサーを目指している方に、基礎的なことを学んでいただいた方が良いと思ったんです。
 
昔は「脚本の読めるプロデューサー」という言い方をしましたが、そういう言葉も最近はあまり聞かなくなりました。「脚本の読めるプロデューサー」の定義は何かと聞かれたら、千差万別だと思いますが、プロデューサーとは、クリエイティビティに対して正しいアドバイスと予算管理ができて、監督を正しい方向に導いていける方、それ以前に資金調達も必要です。ヨーロッパでは資金調達ができないプロデューサーはいないと思います。
 

『アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる』(1994年)
『アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる』(1994年)

『アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる』(1994年)
「ハワイ国際映画祭」銀賞特別賞、「国際エレクトロニック・シネマ・フェスティバル」アストロラビウム賞を受賞。
©Kohei Ando

「プロデューサー養成講座」で学べること
 
安藤  この「プロデューサー養成講座」の一番の特長は普通のプロデューサー講座よりも、より“脚本”に力を入れているところです。物語をつくるセンスや勘の良い方ならば、書くことができるように教えています。脚本を書ければ、読めると思います。読めれば、どこが悪いか具体的な指摘ができるようになります。
 
プロデューサーの中には、具体的な意見や指示ができない人もいますよね。そうなると監督や脚本家と同等に話すことができない。ましてや製作委員会が、いろいろと言ってくると収拾がつかなくなってしまいます。そこに監督や脚本家が一目置くようなプロデューサーの言動があれば、製作委員会の言い分はともかく、プロデューサーの言うことは尊重されます。
 
槙田  最低限、脚本の修正ポイントは判かるようになって欲しいですね。
 
VIPO映像事業部 チーフプロデューサー/元・東宝映画プロデューサー 本間英行安藤  もちろんです。講座だけでではなく、自分でも観た映画について、脚本の構造や素晴らしい部分を体感し、基本的な部分を理論的に分析できれば、ある程度、脚本修正ができるようになります。脚本家も監督も気がつかないようなことを指摘して「そうか!」と思わせたら、プロデューサーとして合格です。
 
本間  脚本家を味方に着けたら勝ちですね。
 
安藤  脚本は建築の設計図と同じで、設計がしっかりしていれば建築費が安くなるか高くなるかも判断できます。勝てると思ったら高くなってもいいんです。それがプロデューサーの想定の中に入っていれば。
 
槙田  最近のプロデューサーは良い脚本になるまで粘らないですか? 撮影までの時間が決まっているから粘れないんでしょうか?
 
本間  時間の問題もあります。キャスティングのことを考えると、事務所が最終的には脚本で判断して出演となるので、脚本が熟成する前にキャストありきで進めることはあると思います。
 

槙田・本間・安藤先生 対談の様子

 

企画書はプロデューサーが自分で書く
 
安藤  企画書は、脚本の構造さえわかれば書きやすいですよね。3幕構成における頭の10分間のサマリーを書いて、1幕終わりのプロットポイント1を書く。2幕目の葛藤の概要を書き、プロットポイント2を書いて、結末を書くんです。結末については「さてどうなるか」などとぼかしておくこともできます。そうすると1ページ、せいぜい2ページには収まります。
 
槙田  教えていて、脚本に対する参加者の理解度は、最初と最後でどのように変わったと思いますか?
 
安藤先生
安藤  今回も、講座後に6件ほどメールをいただきました。「脚本がこんな感じだとは思わなかった」「書けるような気がする」という内容が多かったです。
 
「本当に書けるかな?」とも思いますが、受講をきっかけに本人の自信につながれば良いと思います。脚本を渡され企画書を書けと言われても、構造さえわかれば簡単です。構成に沿って書いていけば、1枚か2枚の中で抑揚のある企画書になると思います。
 
槙田  ハリウッドではプロデューサー見習いの方たちは、山のように送られてくるシナリオを下読みしてサマリーを作って、上にあげるらしいです。それを繰り返すことによって、脚本の読み方を学び、プロデューサーから評価されるようになると聞いたことがあります。東宝さんはどうでしょうか?
 
本間  昔は、「企画書はプロデューサーが自分で書け」と言われていました。でも原作モノが多くなってくると、時間がないのでプロットライターを使うようになるんです。プロデューサー自身の学ぶ機会が少なくなってきているんです。
 
安藤  プロットライトができないですね。シド・フィールド(Syd Field, 1935年~2013年、米国の脚本家、プロデューサー、シナリオ講師)は何百というシナリオと企画書を読んで、2~3件に選別するということをずっとやっていたんですよね。
 

プロデューサー養成講座の様子
講座の様子

 

メディアミックスが多い今だからこそプロデューサーが重要

脚本、監督、全てをコントロールする
 
安藤  脚本が読めるか、企画書が書けるかの話をしていましたが、プロデューサーはそれ以前に、本当は脚本を書けると良いんです。
 
森 岩雄さん(1899年~1979年。東宝の映画プロデューサー、脚本家、映画評論家)は日本にプロデューサーシステムを持ち込んだプロデューサーです。それまでは、松竹が主流のディレクターシステムでした。監督が一番偉くて、監督の言う通りにすべてが動いていく体制がありました。東宝さんでは黒澤 明監督がそうだと思います。森さんはできればプロデューサーが監督をコントロールしたいと提案されたんです。それが良いかどうかは分かりませんが、その能力は持つべきです。森さんはプロデューサーになる前は素晴らしい脚本を書いてもいました。
 
槙田  映画評論もしていましたよね。
 
安藤  そうですね。文章のうまい方です。書ける・読める感覚が大切です。いろいろな方が脚本を書いて映画監督になります。脚本が書けてプロデューサーもできる監督はいます。
 
『アバター』のジェームズ・キャメロン監督はプロデューサーもやりますよね。『ローマの休日』は、ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年~1981年。米国の映画監督)がプロデューサーと監督を務めています。
 
槙田  ビリー・ワイルダー(Billy Wilder, 1906年~2002年。米国の映画監督、脚本家、プロデューサー)もそうですよね。
VIPO事務局 槙田と安藤
安藤  私は、どうしても自分のクリエイティビティに引っ張られるので、プロデューサーと監督は別のほうがいいとは思いますが、脚本が書けてプロデュースもできる方は必要だと思います。スティーヴン・スピルバーグ監督も自分が監督しなくてもプロデューサーとして、脚本を練っていますよね。
 
城戸四朗さん(1894年~1977年。映画プロデューサー)だって「城戸賞」があるくらい、脚本こそが大切だと知っていたプロデューサーですし。昔のプロデューサーはそれぞれ自分の得意分野を持っていた気がします。
 
槙田  先生の第1回目の講義の時に、森 岩雄さんを知っている受講者はほとんどいませんでしたね。
 
安藤  作品製作にあたって、「脚本を書く感覚」、「監督をする感覚」、「マネジメントする感覚」、「見つける感覚」、「全てコーディネートして集められる感覚・拡げられる感覚」、いずれも持ち合わせているのがプロデューサーだと思います。
 
ところが、今はどうもそれどころか……。脚本を書けとも監督をしろとも言いませんが、企画から脚本を推敲し仕上げることに関しては、バジェットとの兼ね合いも含め、プロデューサーがコントロールできないといけません。
 
特に文学的な作品においては、脚本家と監督だけでは、一人合点に陥りやすいことがあります。作品的にもマーケット的にもそれで良いのか、プロデューサーが書ける感覚を持って指摘、修正しないといけないのです。
 
少なくとも脚本家が書いたものを「これではない」、「一番伝えたいのはこういうことだ」とはっきりと示して導かないといけない。バジェットの規模や目標値を推定して、カットしたり選別したりする箇所を指摘できないといけません。脚本の時点で饒舌過ぎたら、短く切らないといけませんし、その判断が重要なんです。
 

『フェルメールの囁き』(1998)
『フェルメールの囁き』(1998)

『フェルメールの囁き』(1998)
「モントルー国際映像祭」グランプリ
©Kohei Ando

 

映画を原作以上に仕上げるのもプロデューサーの腕次第
 
本間  テレビのプロデューサーと脚本づくりをすると、具体的な指摘をしない方が多いと感じます。きちんと脚本が読めるプロデューサーだったら、どうしたらいいのかをライターに言えますよね。
 
安藤  具体的な欠陥が分からないんだと思います。それが致命的なんです。
 
本間  それで言うと、映画は原作があるものばかりなので、特に東宝などのプロデューサー「良い本」よりも、「良い原作」をどう見つけてくるかになっています。
安藤先生対談の様子
安藤  例えば、映画『蜜蜂と遠雷』は、原作とは幾分変えていましたが、原作物を映画化する際の成功例です。作品として力のあるものはある意味自由に、映画としての独立性を持たせて、本とは違う魅力を出したいですよね。そういうプロデューサーをぜひVIPOで育成していただきたいです。監督の方は「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト」で成果が出ているのでね。
 
オリジナル作品が出てこないのは、別の言い方をすると、自分たちで物語の構造を作る自信がないということです。つまり、自信のある作品ができれば、それを小説や他でマルチ展開することも可能です。でも、残念ながら、売れたマンガ原作で映画を作った方が、リスクも含めて楽だとは思いますが……。
 
本間  いかにヒット作をつくるかという部分の目は肥えているかもしれませんが……。今の日本映画の数少ないオリジナル作品は、ほぼインディペンデントです。
 
安藤  オリジナルを作る技量が、監督や観客を育てるような気がします。例えばオリジナル作品を撮る中野量太(ndjc2008修了生)のような監督がどんどん育っていけば良いんです。そういう作品を世間も受け入れられるような土壌になると良いですよね。
 
本間  今は、興行で1回ハズすと、次の仕事が来なくなったりしますからね。その辺は非常にシビアです。ヒットを生む監督が良い監督になってしまっているので。
 
安藤  「どうしてもう少しプロデューサーが突っ込まなかったのかな?」という若い監督の作品が多いんです。先ほど槙田さんがおっしゃったように、「プロデューサーが付いていながら、こんな作品になる?」と思うような作品があるのが、まさにそれです。
 
本間  それは脚本の部分が大きいですか?
 
安藤  大きいです。ある若い監督が撮った映画に、原作と結末を変えた作品がありました。最後を変えたことは素晴らしかったのですが、その変え方のちょっとしたところを間違えたために、観ている側に「これはありえない」と思わせる作品になっていました。後で話を聞いたら、そのシーンの撮影日に出演している役者さんのスケジュールを押さえられなかったらしいのですが、そこはプロデューサーが頑張らないといけなかった部分だったと思うんです。
 

プロデューサー養成講座の様子
講座の様子

 

これからのプロデューサーに期待すること

本作りの段階でいかにプロデュースするか?!
 
本間  私は本を作る段階から尺のことは考えています。撮って切るってすごく無駄なことだなと思うので、脚本の段階できちんとやるべきだと思います。
 
安藤  でも、テレビで慣れている監督やプロデューサーだと「撮って切る」なんです。
 
本間  それは撮影でデジタルビデオとフィルムのどちらで育ったかの違いも大きいですよね。
 
安藤  最小限で撮る感覚がないんです。脚本の時点で不要な部分を切って撮れば、それだけ濃密になります。後から編集で何とかするという考えでは、甘い繋がりになってしまいますよね。最初から削ぎ落としてあると、役者さんは表情やしぐさでそれをどう伝えるかを緊張感を持って演技します。全て撮ってから編集するやり方だと、役者さんは切る部分を意識せずに芝居をするので、結局、鈍くて伝わりにくい形になる可能性があります。役者も監督も油断してしまいますよね。
 
本間  今は何回もテイクを重ねて撮っているので、まるで素材撮りです。リスクヘッジなのかもしれませんが、編集マンが監督のようになってしまっていると感じます。
 
安藤  ありますね。それをどれだけ短くするかというね。
 
槙田  無駄に長い映画が多いですね。テンポ悪いなと思うものがあります。
VIPO本間対談の様子
本間  説明セリフも多いですしね。テレビドラマの影響もあるのではないでしょうか?
 
槙田  本作りのときにプロデューサーが全然意見を言ってないのではないんだと思います。
 
安藤  私も同感です。昔の映画をきちんと見ることが必要になっているのかもしれませんね。昔の映画は90分でも相当濃密な映画がありました。110分~120分は少し長いと言われていました。今では、120分は当たり前です。もちろん、長くて素晴らしい映画も沢山ありますが……。
 
槙田  最近、プロデューサーが頑張ったなと思う映画はありますか?
 
安藤  残念ながら、最近ではあまり思い浮かばないですね。
 
昨年、あるインディペンデント作品が商業映画として思わぬ大ヒットした監督がいるのですが、その監督にある大物俳優が「次回作に出たい」と手紙を書いたらしいんです。次回作に出たい俳優はたくさんいたはずなんです。三谷幸喜的に役者で魅せる映画を撮ることもできたはずです。そういうチャンスはなかなかありません。うまい役者でカバーして、バジェットを大きくして美術などもそれなりに凝って、全国展開していけば、彼の力なら10憶や20憶の興行収入は簡単にいくと思いました。それだけで話題性も出るし、観客も入れば監督のブランドにもなります。それを、1本目と同じような作品を作っていました。これは、プロデューサーの失敗です。
 
2作目を期待されている監督が、次回作を同じような手法で撮ってもあまり意味がありません。次にどのような作品を撮らせるか? どう、新人監督を育てるか? プロデューサーはそこを一番考えないといけません。それもプロデューサーの重要な仕事なんです。

槙田、本間、安藤 対談の様子

海外進出や国際共同製作に挑むプロデューサーへ
 
本間  海外を目指しているプロデューサーはあまりいないですよね。
 
安藤先生対談の様子
槙田  メジャーとインディペンデント系とでも全く違いますよね。過去にインタビューした『リベリアの白い血』の福永壮志監督は、NYでずっとやっている監督です。彼は「ビジネスと英語ができるプロデューサーが圧倒的に不足している」と言っていました。
 
安藤  交渉できないといけないですからね。
 
槙田  判かってはいてもどう解消すればいいのかが課題だと認識しています。
 
安藤  国際共同製作を考えるなら、1年や2年ではなく、USCをきっちりと卒業できるくらいプロデューサーコースで勉強することですね。監督コースでもいいと思います。
 
俺が撮りたいからと、売り込むのではなく、「日本のこういう作品を撮りたい」と、海外の監督やプロデューサーと対等に話をして「共同製作しましょう」と言えるプロデューサーが必要です。英語で脚本を読めて、的確な指示ができる、一番ふさわしい人を監督に選べるようなね……。
 
槙田  大手は多少なりとも余裕があるでしょうから、時間をかけて育成していただきたいと思います。
VIPOP槙田対談の様子VIPOが感じた明るい話は、「ロッテルダムラボ」**の募集に今回多くの応募があったことです。3名の枠に17名もの応募がありました。
**「ロッテルダム国際映画祭」が、1983年に世界で初めて立ち上げた映画企画マーケット「CineMart」により、2001年から運営されている新進プロデューサー対象のワークショップ。
 
大手から中堅以下まで……海外を視野に入れて活動している若い方が増えているのは間違いないと感じました。でもその方たちが商業的なパイプラインになれるようになるかと言うとまだまだですし、そこを今後どうしていくかがVIPOとしても取り組むべき課題だと感じています。
 
釜山国際映画祭」で企画プレゼンテーション用のブースを出展したり、NAFF(Network of Asian Fantastic Films)でVIPO枠をとっているのですが、そこにチャレンジしたいという方も徐々に増えてきています。
 
その一方で、VIPOが去年から運営している企画開発費の補助金(J-LOD)のことを知らない方が多いのです。今年、釜山のピッチの紹介セミナーには40名くらいのプロデューサーが集まりましたが、企画開発費の補助金を知っているかを聞いたところ、4~5名しか手が上がりませんでした。
 
私たちの周知の努力が足りないのが原因なのですが、プロデューサー自身がもっと情報に敏感であって欲しいとも感じました。製作費を集めることにどこまで真剣なのか疑問に思いましたね。そこを少しずつ変えていくのが私たちの仕事です。若い方の意識をもう一段、商業的に上の段階にあげるには何が必要なのか、日々模索しています。
 
安藤  課題はたくさんありますが、できる限り「プロデューサー養成講座」は続けていきたいですね。
 
槙田  安藤先生、本日は貴重なお話をありがとうございました。

(左から)槙田、本間、安藤先生

 
 

安藤紘平 Kohei ANDO
映画監督・早稲田大学名誉教授

  • 1944年生まれ。
    1968年、早稲田大学理工学部卒業。大学在学中から劇団「天井桟敷」に所属、映像作家として活動。同年TBS入社、事業局・メディア推進局局次長などを歴任。
    2004年、TBSを退職後、早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授。
    1969年、電子映像を使った日本初のフィルム『オー・マイ・マザー』で「オーバーハウゼン国際短編映画祭」入選、同作品は米国ゲッティ美術館、横浜美術館などに収蔵。
    1973年、『息子達』でフランスの「トノンレバン国際映画祭」グランプリを受賞。
    1978年、『通り過ぎる電車のように』ゲッティ美術館など国内外美術館に収蔵。
    1994年、ハイビジョン撮影を35ミリフィルムに変換した『アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる』で、「ハワイ国際映画祭」銀賞特別賞、「国際エレクトロニック・シネマ・フェスティバル」アストロラビウム賞を受賞。
    1998年、『フェルメールの囁き』で「モントルー国際映像祭」グランプリを受賞。その他、作品、受賞歴多数。デジタル、ハイビジョンに先鞭をつけた映画作家として世界的に著名であり、2001年にはパリで安藤紘平回顧展が開催された。
    日本映画監督協会国際委員。
    東京国際映画祭プログラミングアドバイザー

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